忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は名君かそれとも暗君か?

浅野内匠頭

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赤穂浪士の討ち入りの原因を作った主君浅野内匠頭は、映画やドラマでは真面目で気弱、清廉潔白といった人物に描かれているパターンが多く、世間ではそのようなイメージが定着しています。

ですが実際は浅野内匠頭は善玉で吉良上野介は悪玉というように単純に割り切れるものではありません。

はたして実際の浅野内匠頭とはどのような人物だったのでしょうか。

浅野内匠頭の生涯

1667年に赤穂藩主である浅野長友の長男として江戸の浅野家上屋敷で誕生しました。幼名は又一郎、犬千代とも。長じて長矩と名乗りましたが、官名を下に付けた浅野内匠頭のほうが有名ですね。

赤穂浅野家は戦国から江戸時代にかけて活躍した浅野長政を祖とする広島浅野藩から分かれました。

9歳のときに父の長直が亡くなったため、浅野家を継ぎ赤穂藩5万3千石の3代目の藩主となります。

1680年に従五位下に叙せられ内匠頭の官職を与えられました。

1682年幕府より朝鮮通信使の饗応役に選ばれました。翌年には勅使饗応役を仰せ付けられ、後年因縁の相手となる吉良上野介が指南役となっています。このときは無事に務めを果たしています。ということはこの時点で両者は顔を合わせているので、松の廊下事件のあったときはすでに顔見知りの間柄だったわけですね。

この年に亜久里と結婚し初めて所領の赤穂にお国入り。忠臣蔵の主人公ともいうべき大石内蔵助良雄と対面しました。

1691年に長矩は大名火消に任命されました。浅野家の火消しとしては祖父の長直が有名でしたが、孫の長矩も火事の際には活躍を見せたそうです。

1701年2度目の勅使饗応役に任命され4月21日に松の廊下の殿中刃傷事件が起こります。長矩は事件当日に切腹。享年35。

1702年赤穂浪士による討ち入り。1703年浪士たちは切腹。

浅野内匠頭の生涯
・1667年江戸で誕生
・1675年9歳で赤穂藩主に
・1680年内匠頭の官職
・1682年朝鮮通信使の饗応役
・1683年1回目の勅使饗応役
・1691年大名火消に任命
・1701年2回目の勅使饗応役、松の廊下事件で切腹
・1702年赤穂浪士討ち入り
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浅野内匠頭の性格と評価

赤穂浅野家を潰し、多くの家臣を路頭に迷わせた浅野内匠頭は短気だが善良で純粋な人物像が一般的に思い描かれますが、実際にはどうだったのでしょうか。

もちろん人間は誰でも複雑な内面を併せ持った存在です。当然単純明快に割り切れるものではありません。いろいろ調べていくといままで抱いていた長矩のイメージとは違った側面が見えてきます。また赤穂浪士の討ち入りも世間で思っているような忠義一辺倒というわけでもありません。

実は長矩の存在を世に知らしめたのは赤穂浪士の討ち入りがきっかけであり、それまでは当時でも無名といっても良いくらいでした。

現在でも長矩については大まかな略歴しかわからないそうです。これは赤穂事件のあと浅野家が取り潰されてしまい、改易になった藩の書類を所持していることは幕府への憚りもあり、記録が散在したり処分されたりしてしまったからです。

赤穂浪士の討ち入り前までは浅野内匠頭は世間ではほぼ無名の存在

現在まで残されている資料も討ち入り後のものがほとんどで、討ち入り以前は藩が改易になったため上記の理由などにより現存してないそうです。

そんな数少ない長矩について書かれた当時の書物のひとつに、元禄時代の各地の藩主や政治について批評した『土芥寇讎記』があります。この中での長矩評はなかなか手厳しいものがあります。

長矩は賢く利発で、領国では良い統治を行っているため家臣も領民も豊かである。だが非常な女好きのため長矩に美女を差し出すような家来が気に入られ立身出世している。昼夜を問わず女性と戯れ奥から出て来ず、藩政は大石内蔵助ら家老に任せっきりと、けちょんけちょんに書かれています。

長矩を批評した当時の貴重な資料にもうひとつ『諫懲後正』という書物があります。

それによると長矩は文道を学ばず、武道ばかりを好む。知恵はないが、威張らず、気が小さく律儀である。淳直な性格であり道に背くような行いはしない。奢らず、世間との付き合いもよい。政道は厳しく、贅沢はしないが民からむさぼり取って憐みがない。短慮であるが行跡はよい。奥方の下女について非道なやり方があり、世間では浅野家は改易になるのではという悪い噂が立った。

奥方の下女についてどのような非道なことをしたのか、具体的には伝わっていないので内容がわかりません。ですが家を揺るがすようなことになる、と言われることから結構大事だったと思われます。一説には女中が放火した事件とも言われていますが、これが非道のことにあたるのかははっきりしません。

松の廊下事件が起こる前に、その予兆を感じさせる事件があったのです。

『諫懲後正』の長矩評は少し矛盾している点もあるような気もしますが、以上のことから今に伝えられている長矩の性格としては、以下のような点があります。

浅野内匠頭の性格
・女好き
・短気
・真面目
・高いプライド

女好き

『土芥寇讎記』の他には見られず長矩自身側室を持たなかったため、本当に女好きかどうかは疑わしいとも言われています。もしかしたら気が小さいため側室を持つことをためらい、代わりに女漁りをしていた可能性もあります。

ただし女性と戯れて政治に関わろうとしなかったため、大石内蔵助が代わりに政務と採ったことが結果的に彼の手腕を磨くことになったとも。

短気

上記にあるの奥方の下女に酷いことをしたのは、何かのはずみで頭に血が上ってカッとなったのしょうか?吉良上野介に斬り付けたのも短気であったからこその結果です。

怒りの沸点が低く、我慢の限界にすぐ到達してしまう癇癪持ちであった性格が伺われます。

侍医として仕えていた寺井玄渓によると、長矩は「痞え(つかえ)」の持病があったとのことです。「痞え」は感情が高ぶると胸が苦しくなったり、腹痛が起こる病気とされていました。そのために薬も飲んでいたそうです。この持病が長矩を短気にさせていたのかもしれません。

真面目

威張らず、気が小さく律儀であることは勤勉で実直というような良いこともある反面、身分の低い者たちへの憐みを持つ余裕がない裏返しになることも。長矩の場合まさにこのケースだったのでしょう。

贅沢はしないが民からむさぼり取るとは、赤穂藩の年貢が重税だったことを意味しています。『土芥寇讎記』によると赤穂藩は5万3千石ですが他に税として2万8千石ほどあり、米がよく取れ鳥獣、魚、柴が豊富で地味が良いとされています。更に名産の塩も赤穂に多大な利益をもたらしてくれました。

ですが赤穂藩の年貢は当時六公四民と高い税率だったのです。赤穂事件後に浅野家が改易された際、領民が大喜びして餅をついて祝ったという話が『閑田次筆』という書物に見られますが、事件の100年後に刊行されたため信憑性がないと言えます。

高いプライド

同時代の室鳩巣はその著作である『赤穂義人録』に長矩は人に頭を下げるのを好まない性格だったと記しています。

長矩にはまた城持ち大名という誇りもありました。それもただの城ではありません。徳川の世になり「武家諸法度」や「一国一城令」により築城はもちろんのこと改修でさえナーバスになった時代に、長矩の祖父である長直は赤穂城を築きました。3代将軍家光の命とも長直の執拗な要請ともいわれています。

そのため赤穂には軍学が盛んになり、軍学者や兵法者が集まるようになりました。有名な山鹿素行もその一人です。

結果赤穂藩は武張った藩風になり、長矩だけでなく家臣たちの胸の内にも自分たちが自ら築いた城を持っているという自尊心を育てていったと思われます。

まとめ

浅野内匠頭という人は一般的に善玉でイメージされますが、結構欠点も多い人物であったようです。決して良くできた人間ではなかったと推測できます。ですが江戸時代の殿様の中では普通のレベルでしょう。名君ではないものの暗君ともいえません。

江戸時代にはもっと酷い殿様はたくさんいました。君主が多少ダメでも家老がしっかりしていれば藩は安泰でした。

松の廊下事件の原因については、付け届けの少ないことによる吉良のパワハラ、塩の製造法についてのトラブル、横恋慕など諸説ありますがはっきりしていません。

但し短気、生真面目などの長矩の性格が大きな要因になったことは確かでしょう。

四十七士による討ち入りも吉良に対する恨みだけではなく、路頭に迷わないための再就職が目的との見解もあります。映画やドラマでは処刑されることを覚悟の上での行動と描かれていますが、実際の浪士たちはそんな重い処罰が下されるとは思っていなかったフシがありました。当時仇討ちは罪に問われないどころか権利でもあったのです。再仕官のためのアピールだったという見方は一応筋が通ります。

浅野内匠頭については磯田道史著『殿様の通信簿』や稲垣史生著『風流大名列伝』に詳しく書かれています。どちらも主に江戸時代の殿様の興味深いエピソードを紹介した本です。

『殿様の通信簿』では水戸黄門こと徳川光圀や加賀前田家の当主、利家とその息子の利常、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」で有名な鬼作左こと本多作左衛門などのエピソードが紹介されています。

『風流大名列伝』では八代将軍吉宗の向こうを張った徳川宗春、柳生新陰流の柳生宗矩、幕末の薩摩の藩主島津重豪、斉興、斉彬などが取り上げられています。

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