「老いてますます盛ん」とはまさにこの人を指しています。いまや巨匠となったクリント・イーストウッドですが、若い頃はなかなか芽が出ずやっと主演が張れるようになっても高い評価を得られませんでした。
そんなクリント・イーストウッドですが、wikiでは長すぎるのでこの記事でわかりやすく、簡単にご紹介したいと思います。
クリント・イーストウッドの来歴
クリント・イーストウッドの経歴を駆け足で追っていきます。
幼少期から青年期
本名クリントン・イーストウッド・ジュニアは1930年5月31日にカリフォルニア州サンフランシスコで誕生しました。
子どもの頃の彼は運動神経が良く、音楽の素質を見せていたものの、学校での成績が悪く転校を経験したりしました。
学校を卒業してからは工場や陸軍で働いていた時期もあったようです。その後住宅工事の仕事をしながら映画に出始めました。
「ローハイド」で注目
ユニバーサルと契約し映画に出演するようにはなったものの、良い役に恵まれずオーディションには落ちまくっていたようです。
そのうちテレビドラマに出演するようになり、「ローハイド」で一躍注目されるようになりました。
ローハイドは南北戦争後のアメリカ西部を舞台としたカウボーイの物語で、イーストウッドは主演のロディ・イェーツ役で人気を博しました。
マカロニウエスタンでの成功
ですがやがてドラマもマンネリとなりイーストウッドはキャリアの転換を余儀なくされます。その頃、映画監督のセルジオ・レオーネから西部劇「荒野の用心棒」のオファーが届きます。
初めはヘンリー・フォンダ、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンなど錚々たるメンバーに声が掛かりましたが、悉く断られたためイーストウッドにお鉢が回ってきたのです。
撮影はイタリアで行われ、続けて「夕陽のガンマン」、「続・夕陽のガンマン」と作られました。それらはドル箱三部作と言われアメリカでもヒットしイーストウッドのキャリアに大きな影響を与えましたが、批評家からの評価は芳しいものではありませんでした。
マルパソ・プロダクションの設立と監督デビュー
マカロニウエスタンでの成功を元にイーストウッドは映画制作会社を設立しました。社名は自宅近くを流れる川の名前から「マルパソ・プロダクション」と名付けられました。
またスペイン語で「マルパソ」とは険しい道という意味もあり、自らのキャリアを自虐するようでもあり、これからの決意を表しているようでもあります。
そしてこのマルパソ・プロダクションを立ち上げたことでイーストウッドはハリウッドの商業的な枠組みの中に身を置きつつ、そのシステムからは距離をとって自らの作品を生み出していくことになります。
それは彼が監督または出演した作品のほとんどがハリウッドが好む派手なアクションモノや大作ではなく、いわゆるB級映画といえることからも窺い知ることができます。
70年代に入りイーストウッドは自らメガホンを取り、監督として作品を世に送り出します。その第1作はサスペンス、今で言うストーカーモノ「恐怖のメロディ」で監督デビューを果たします。以降、「荒野のストレンジャー」、「ファイヤーフォックス」、「ハートブレイクリッジ・勝利の戦場」など多くの作品を監督しています。2000年代以降では出演するより監督として作品に携わることがほとんどとなっています。
「ダーティーハリー」とドン・シーゲル
イーストウッドはマカロニウエスタンで成功しアメリカに凱旋した後、ドン・シーゲル監督と出会います。そして監督主演コンビ第1作として「マンハッタン無宿」を世に送り出します。この作品は後の「ダーティーハリー」シリーズの原型となりました。
シーゲルはセルジオ・レオーネと共にイーストウッドにとって師ともいえる存在でした。後に彼は演出については、シーゲルから最も多く学んだと語っています。
「ダーティーハリー」シリーズはイーストウッドにとって代名詞のような作品となりました。特にある年代以上の人々にとってはクリント・イーストウッドといえばハリー・キャラハンを連想するほどイメージとして染み付いていました。
因みにハリー・キャラハン役は当初、ポール・ニューマン、ジョン・ウェイン、フランク・シナトラ、ウォルター・マッソーらが候補に挙がっていました。誰がやってもイーストウッドが演じたイメージとはだいぶ違ったハリー・キャラハンが誕生していたでしょう。
名優にして名監督
80年代からは関わった作品に監督、出演の他にプロデューサーとしても名を連ねていきます。2000年代に入ると俳優として出演することは減り、もっぱら監督、プロデューサーとしての活動がメインとなっていきました。
イーストウッドがその長いキャリアでアカデミー賞を受賞したのは、作品賞及び監督賞で92年の「許されざる者」と04年の「ミリオンダラー・ベイビー」があります。
他にも監督作品として「ミスティック・リバー」や「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」の2部作、「グラン・トリノ」、「アメリカン・スナイパー」などの傑作を生み出しています。
トリビア
音楽好き
イーストウッドの音楽好きは有名で特にジャズを好みます。88年にはアルトサックス奏者のチャーリー・パーカーを取り上げた「バード」を監督製作していますし、いくつもの作品で音楽を提供しています。
音楽好きは息子にも受け継がれ、カイル・イーストウッドはジャズベーシストとして活躍し、「硫黄島からの手紙」や「グラン・トリノ」など父親の映画でも音楽を担当しています。
政治的スタンス
そのキャリアにおいて演じてきた役の多くがタフガイといったイメージなので、チャールトン・ヘストンのようなガチガチの右派なのかと思われがちですが、共和党支持ではあるものの中道右派といえそうです。
インタビューでも最近のポリティカルコレクトネスが喧しくいわれるようになった風潮を「軟弱な時代になった」と批判し、トランプ大統領を消極的ながらも支持するような発言をしています。
また自ら政治家としてカリフォルニア州カーメル市の市長を86年から1期2年務めたこともあります。
日本嫌い?
日本では抜群の知名度と人気を誇るイーストウッドですが、来日しない俳優として有名でした。
62年に「ローハイド」のPRで来日して以来、05年に「硫黄島からの手紙」の製作準備のため、実に43年ぶりにやってきました。硫黄島を視察した後に、当時の石原慎太郎東京都知事を表敬訪問しました。
第70回カンヌ映画祭マスタークラスの対談の中で「硫黄島からの手紙」のエピソードを語っています。それによると「父親たちの星条旗」を撮影中に硫黄島についてのいくつかの本を読んでいたら、どの本でも当時の海兵隊員がいかに日本兵が勇敢に戦ったか褒め称えていたので興味を持ったそうです。そこで途中で日本側から描いた「硫黄島からの手紙」を製作することになったと答えています。
因みに、若い頃から健康に気を使っているイーストウッドは、最近は緑茶をよく飲んでいるそうです。
遅い評価
いまでこそ巨匠と認められていますが、はじめのうちはアメリカでは中々評価されませんでした。
映画界に飛び込んでから苦労の連続で初めはテレビ俳優、そして渡欧しようやく成功を掴んだイーストウッドですが、それでもアメリカでの評価はイタリア帰りのB級スター扱いでした。
なかでも高名な映画評論家であるポーリン・ケイル女史からはまったく評価されませんでした。そんなイーストウッドをアメリカより早く認めたのがヨーロッパ、なかでもフランスとイタリアです。アメリカでもニューヨーク近代美術館がいち早く評価しました。
さいごに
かつてイーストウッドはインタビューで「暴力の要素のない映画には惹かれない」というようなことをコメントしていましたが、確かに彼を有名にしたのはダーティーハリーや西部劇などをはじめとするタフガイとしてのキャラクターでした。
マッチョイズムのシンボルとしてのイメージから、正義の名のもとに理不尽な暴力も厭わないといった印象もあります。ですが作中では善悪の狭間を描き、そこにはニヒリズムを垣間見ることができます。
更にキャリア後半の監督作品では正義、悪といった二元的な物事の捉え方ではなく、多面的な判断を観客に問うような作品が多く散見されるようになりました。